2019/06/07 20:34

#4田村友恵です。 

デフフットサルを応援しよう!!とSNSで沢山発信してくださってる方々に感動し、 

私も出来る限り初代メンバーとして8年前の話を伝えさせていただきます。 


その前に私がフットサルを始めたきっかけ・・・ 

技短に入学してまもなく同級生のヨーコが新入生にしてフットサルサークルを作り、 

絶対来てね!と半ば強引に誘ってくれたのがきっかけです。 

これまで中高生はバドミントン部でした。 

(技短=筑波技術短期大学。聴覚障害者を対象とした日本国内唯一の国立大学) 

余談ですが、#9リンも技短の同級生でやはりヨーコの勧誘により二学年の途中でバスケ部から転向してきました。 

卒業後でもヨーコがデフのチームを立ち上げ、一緒に活動していました。 

こうしてヨーコが周りの人を巻き込んで引っ張り続け、後に前回W杯の日本代表キャプテンとしてチームを牽引します。 



本題。 

今から12年前、デフフットサルの協会がまだ無かった頃、 

知り合いからイタリアで非公式のデフフットサル大会があると聞き、 

ヨーコと有志のメンバーを集め、5名で参加し準優勝しました。 

そのメンバーにはリン・#15シューがいました。 

ヨーロッパ中の人達から今年のデフフットサルW杯(ブルガリア)に出ないの?と言われ、 

そこで初めてW杯の存在を知り、将来W杯に出てメダルを獲りたいね!と皆でわいわい話していました。 

帰国後、早速ろう者サッカー協会にW杯あるらしいよ!と情報を提供しました。 


その数年後に協会の中にデフフットサルのカテゴリーが設立され、 

2011年第二回デフフットサルW杯(スウェーデン)に出場すると正式に公表され、 

待ってました!!とワクワクしながら日本代表を目指しました。 

しかし代表活動費は自己負担でした。 

また監督がいなく、船越さん(現男子日本代表#5)に選手兼任で監督をやってくれないかと無理を承知でお願いしたら、 

協会から兼任は認めないと告げられ、船越さんは断腸の思いで選手としての出場を諦め監督を選びました。 

恩返しのためにも何が何でも結果を出してやると自分自身を鼓舞し、 

フットサルと仕事が両立できるように土曜出勤ありの会社を辞め今の会社に転職し、挑みました。 

実際始まると想像以上に大変でした。 

費用を抑えるために、大阪で合宿だけどホテルは神戸と結構移動距離があり 

早朝にスーツケースを持って東京から大阪に向かい、昼から夜まで練習し、そこから神戸まで電車で移動し外食して、 

深夜ホテルに着いてシャワー、MTGしてやっと就寝、翌朝寝不足のまま大阪移動、練習試合、、という過酷な環境でした。 

一般企業に勤めている私は特に月曜の朝がきつく這いつくばって出社、精神面もプレッシャーからか疲労していました。 

そんな私を見かねた友人が日本代表なのに自己負担だよね?なんでそこまで頑張る?と呆れていました。 


でもそれ以上に楽しいことも沢山あったからしんどくても頑張れたのです。 

当時私はリン・後輩Yと3人暮らしをしていて、ヨーコも近所に姉たちと住んでいて、 

一緒に夜の公園で基本練したり坂道ダッシュしていたのが、今となっては懐かしい思い出です。 

経済的理由により辞退するメンバーもいましたが、(後輩Yもその中の一人でした) 

私たちはメダル獲得に向けてひたすら走り続けていました。 

試合の経験を積むためにデフチームで東京都エントランスリーグ参加を申し込みましたが、 

デフだからスムーズに進行できない、万一何か起きたら対応できないという理由で断られました。(今は認められるようになりました) 

途方に暮れた私達は何とかワンデー大会や健聴チームとの練習試合で補い、 

試合感覚を養っていくよう努めていました。 



一部の選手はレベルアップのためにデフチームを去り健聴のチームに入りました。 

それはデフの世界で生きてきた私にとって外国チーム移籍と同じくらい相当勇気がいることなのです。 

やはりコミュニケーションの面で苦労している話を聞き、 

自分には一生関わることのない世界だなとぼんやり思っていました。 

ほとんどの選手は公式試合の経験がないままスウェーデンへ発ちました。 

結果は空しくも予選敗退で終わり、自分に絶望し燃え尽き症候群にかかり引退しました。 



代表活動を継続していたヨーコとはちょくちょく会って、 

デフチームは解散、みんな健聴のチームで頑張ってる、監督は健聴だけど手話を勉強してる、 

トレーナーがいて助かる、期待の若手メンバーがいる、まだ自己負担だけど環境は前よりは良くなってる、 

募金活動をしている、現状を変えるためにも結果を出さないといけない、、、など色々話を聞いていました。 

そして毎回「やっぱりW杯の経験者が必要!友恵も続けるべき!!続ける義務がある!!!」と言っていました。 

それでも、やらないの一点張りだった私。 

3年、、経ってもヨーコはまだ言っていました。 

「続ける義務がある!!!!!」なんてしつこいんでしょう。 

そのせい、いえ、お陰で、やりたい気持ちが少しずつ芽生え、自分の心に迷いが生じてきた時 

たまたまTVのしくじり先生を見て、DaiGoが言った言葉「自分につくウソはいずれ真実になる」が 

すごく私の胸にグサーッと刺さりました。 

自分の気持ちに気づかないフリして自己負担キツイといって何もせずダラダラしてこのまま一生を終える 

それが真実になるなんてゾッとしました。 

今を変えないと未来は変わらない。私でもW杯経験者としてチームの力になりたい。 

ダメ元で協会を通して山本監督に連絡し、結果的に復帰しました。 


選ばれるために、ブランクを埋めるべく死に物狂いでトレーニングし、 

そして、とうとう無縁と思っていた健聴チームの門を叩きました。 

練習初日は憂鬱でお尻が重くて、でも自分のために行かないといけなくて、 

勇気を出してえいやっと飛び降りるつもりでいったら 

そんな私を察してくれたのかコーチに「緊張しているよね、大丈夫だから」と 

お声掛けくださり、安心したこと今でも鮮明に覚えています。幸いデフに理解のあるチームで 

コーチがコミュニケーション面でコーチ含め選手マネージャー全員がサポートするよう働きかけてくださり 

とても恵まれた環境で練習させていただけました。

感謝しかなかったです。。


W杯(タイ)は準々決勝で敗れメダル獲得ならず、皆で泣きました。 

四年後こそ世界一!私には続ける義務がある!! 

と4年後も目指すことに決め、それから苦悩と葛藤の日々もありましたが、 

皆に支えられ、今に至ります。 

今でも周知の通り自己負担です。 

節約のために夜行バスを利用する選手や普通電車で6~10時間かけて合宿に参加する選手もいます。 

特に#3ミクは去年までは沖縄住まいなのと未成年なので保護者同行必須であり負担が2、3倍と凄まじいです。 

ホテルはお金を優先して遠い所にするか、時間と体力を優先して近い所にするか、 

グループLINEで相談して頭を悩ませながら決めることもあります。 


皆さま、どうか、力を貸していただけませんか。 

W杯に全員で行って、最高の結果を出して、みんなで喜び合いたいです。 


クラウドファンディング、まだまだチャレンジ中です。 


応援のほどよろしくお願いいたします!!!!!