2016/12/06 23:15

本日、少年院の「中」での支援活動では、私たちが常識的に前提としているものが前提となっていないことに直面した。

今日はPC基礎講習ということで、「タッチタイプ」「エクセル(関数)」「ワード(文章タイプ)」を、時間を区切って行った。本当に基本的なことではあるが、10代の子どもたちはすでにスマホシフトしているため、タッチタイプはむしろできる子どもの方が少ないのではないかということ。そして、エクセルを使いこなす10代もまた少ないのでははないか。

つまり、「できない」「わからない」は少年院の子どもたちが特別ではなく、世代的に「触れる機会に乏しい」のではなかと思うのだ。

既に数回目の子どもと、今日から参加する子どもが混在するクラスで、私は今日から参加する子どもに付き添った。まだあどけない横顔と、日常の生活をともにする法務教官の方々ではない大人の存在は、彼にどう映ったであろうか。

タッチタイプは、それぞれのレベルに応じてソフトを使って練習するが、ホームポジションのない我流ではあるが、それなりに早く打ち込んでいく。そこそこPCを使ってきた子なのかなと感じたほどだ。しかし、彼の手が止まった。

エクセルの関数といっても、SUMを使ってみる程度のもので、いまお読みいただいている多くのひとにとっては造作もないことだろう。しかし、初めてエクセルを使うときに、「これかな?」と思いながら進めていったときのことを思い出していただきたいのだが、サクサクとはできない。一回できると、「あぁ、こんなものか」と思う。

しかし、彼の手は止まったのだ。どこで止まったのか。まずは「品物」とセルに打ち込む際に、「品物」を「しなもの」、そして「SHINAMONO」に頭のなかで変換ができず、固まった。そこで、紙の裏に「しなもの」と「SHINAMONO」と書いた。すると彼は素早く文字を入れ込んだ。

「品物」を「しなもの」と読めなかったのか、それとも「しなもの」を「SHINAMONO」に変換できなかったのかは聞かなかった。彼のことをまったく知らないからだ。これまでの成育歴、そのなかでの出来事や感情の起伏などがわからない状況で、しかも初対面では、どうしてできないかよりも、どうしたらできるかだけに集中する。

次に、「みかん」や「りんご」をタイプするところでも手が止まった。それとなく「MIKANN」「RINGO」と紙上に書き込むと、ささっとタイプしていく。そんなこんなでSUMを入れた彼は、初めてのエクセルで課題ができたことにふと笑顔を見せた。

なぜ、彼は漢字やアルファベットができないのかを考えた。年齢的には小中学校が終わっている。漢字も特別難しいものではなく、また、アルファベット(ローマ字)も、高度なものが要求されたわけではない。しかも、彼はアルファベットを見て、しっかりとタイプしている。

いくつかの可能性は浮かぶが、この基本的なことができない彼の生い立ちを勝手に想像してみる。学校段階であれば、どこかでわからなくなったとき、誰にも聞けなかったか、誰も気が付かずに教えてあげなかったのかもしれない。そして、できないままでも授業は進むが、進級し、卒業する。

小学生であれば、宿題でわからないことがあれば親に聞くこともあるだろう。しかし、親や保護者がいなかったのかもしれない。いたけれどもちょっとした質問ができない関係性だったのかもしれない。少なくとも塾などに通っていればここらへんはサポートされたのではないかと思うのだが、そういう機会もなかったのかもしれない。

全部想像ではあるが、事実として彼は漢字やアルファベットが理解できていない。かなり基礎レベルであり、小学生で習熟すべきものだ。そして彼は退院後に仕事に就くことを目指すだろう。学力が身についてなくても働ける場所はあるかもしれない。しかし、わからないことは聞くことで解決できることや、そもそもわからないことをわからないままにしないようにすることが経験として抜けているかもしれない。

仕事に就いてもうまくいくだろうか。仕事のみならず、今後の生活や人生はどうなるだろうか。彼に手を差し伸べるのは、彼を理解し、受け入れる”よい大人”だろうか。

ずっとそんなことを考えている。誰が彼を支えていくのだろうか。

彼は終始笑顔だった。ふんわりと笑う表情は、まだ幼さを残す。ただ、それは私が外から来た誰かだからで、余所行きの顔をしたのかもしれない。実際、少年院の中にいる少年は、愛情を持って接する法務教官に対して、感情的になったり、よくない態度をすることもあるそうだ。愛着形成に起因するのかもしれない。

しかし、誰だって他所行きの顔や態度をするだろう。完全に素のままで誰とでも接することができるひとのほうが稀だ。そして彼らは退院後、社会に出る。いろいろなひとがいる場所だ。それを聞いて、少年院の外側から内側に入る僕らは、少しばかりの「社会」という風を持つ大人として、少年院内外をつなぐ存在になり得るのではないだろうか。

それが直接的にどのように子どもたちの役に立ち、成長に寄与するのかまだ見えていない。しかし、これまで彼があったこともないような大人のひとりとして、彼や彼のような子どもたちにかかわることができる、それはとても価値のあるチャレンジだと思うのだ。

文責:工藤啓