2019/07/31 09:41

いつもデフフットサルの応援ありがとうございます。


クラウドファンディングも今日で終わります。

チームのみんなの自己紹介も終わり、

デフフットサルという、世界を目指すチームのこと、知っていただき、みなさんの心に残り、引き続き応援いただけるとうれしいです。


フィジカルモンスター 中井香那、

日本一、そして世界を目指す



遅くなりましたが、読んでいただけるとうれしいです。



私は、聴覚障害のおかげで、隣の校区の中学校に、堺市で唯一の難聴学級があり、そこに越境で通うことになります。


 

小学生の時から球技は得意でした。

ミニバスケのようなポートボールをやっていたので、バスケ部に入る気満々でしたが、中学にはバスケ部がありませんでした。


いろいろ見学しましたが、何部に入ったらいいのか、柔道か水泳かハンドボールか悩みました。


初めて見るハンドボールに、走りたい、投げたい、シュートしたいと球技が好きな私はワクワクし、ハンドボールを選びました。



まずはフィールドで練習しましたが、その時は仲間のかけ声や、指示もわからず、戸惑うことが多かったので、続けられるか不安になりました。


中学1年の時は、チームの中にGKが1人だったため、1年生の誰がGKに使えるか、順番に回しながら、GKの練習をしていました。

監督から「GKどうや?」と勧められました。

初めは監督に褒められると天狗になりやる気になっていましたが、走るのが好きな私は「フィールドがやりたい。」と思い始め監督と相談したら「G Kや!」ときっぱり言われました。

「聞こえないからキーパーや。」「仲間とコミュニケーション取れないからや。」とマイナスになることが多く監督とコミュニケーションを上手く取れないことが多かったので、監督からの提案で、交換ノートを始めました。

ほんとに怖い先生でね、面と向かってはなかなか言えないこともノートなら、

自分の悩んでること、練習のことで分からないことや、聞きたいこと、自分の気持ちを伝えるようにしました。



何度も「GKが嫌になりました。ハンド部を辞めたい。」と書きました。


監督からは「聞こえないからこそ視野が広く、誰よりも遠くにボールを飛ばせる。お前みたいなGKはいない。お前がいるからこそ助かる所が多い。」と書いてもらい、何度も辞めずに踏みとどまりました。


監督とのノートは14冊にもなりました。


監督は、以前にも男子ハンドボール部を全国大会に出場させるほど、熱血指導者です。


朝練に始まり、どのクラブよりも一番遅くまで練習、土日は2部練、連休は、合宿や練習試合ばかりでした。

試合に勝っても、内容が悪かったら、帰ってからも練習でした。

本当に厳しくて辞めようと仲間と話ししたりしましたが、監督が怖すぎで辞めれませんでした(笑)


ハンドばかりの生活だったので、中学の行事の思い出とかあまり覚えていません。(笑)

修学旅行の思い出も薄い…(笑)どこに行ったけ?

体育大会だけが、楽しかったなー。


 髪の毛も男の子みたいに短髪でした。その時は補聴器を見られたくないという気持ちが大きくて、髪の毛切る時は泣いていたの覚えています。

やっと伸ばせたのは、大学だ!幸せだった!(笑)

高校も耳の上まで切られる、、、、

本当に本当に嫌だった!

 

チームの目標の「全国制覇!!!」「覇」の漢字が書けずに苦労していたの覚えています。(笑)

努力は決して裏切らない。

なんでも一生懸命やる、聞こえない分、人の二倍、三倍やる。


勉強もそれだけやればよかったんですがね(笑)


堺、大阪、近畿大会を勝ち抜き、

いよいよ、北海道での全国大会!




苦しい試合を、ギリギリで勝ち抜き、どんどん波に乗っていき、全国大会優勝という結果を手にしました。

ハンデ乗り越え日本一と、ハンドボールの雑誌や、新聞にも載せてもらいました。


地元の方もこんな横断幕を作ってくれたり、私は越境で別の中学に行っていたから、久しぶりに会った小学校の友達から「すげぇーやん」って言ってもらったのを覚えています。

でもあんまり会いたくなかったなー。髪の毛が短いから見られたくなかった。(笑)


あくまで、髪型にこだわる私でした。



全国にいるGKは160㎝以上が多く、私は日本一のチビGKでした。

でも、反射神経やスロー(速攻)は他の人には負けませんでした。

チビだから上のシュートを狙われることが多く、ジャンプ力もつけました。なので、ジャンプは自信あります。(笑)

 



高校でもハンドボールを続けます。


高校は大阪か兵庫か和歌山のどこに行くか悩みましたが、レギュラーで、出れる初芝橋本(和歌山)に決めました。



高校では女の監督で、私と同じ身長ぐらいで、小さい私の気持ちもわかってくれました。(笑)


県外まで通うのは確かに大変でした…

帰りの電車は爆睡です。



初芝橋本高校はサッカー名門校です。

(今年のインターハイもベスト8に入っています。同級生でプロになった選手もいます。)


彼らの練習の厳しさもみて、またサッカーの練習方法をハンドの練習に取り入れたりしました。

こうして思えば、サッカーとも縁があります。



3年連続インターハイ、選抜、国体も出場しました。


高校にも中学のチームメイトが1人いたので、その友達が通訳してくれたり、指文字を広めてくれました。


高校の友達も指文字を覚えてくれました。(その時私は手話は全く知りませんでした。)

交換ノートは高校卒業するまで続けていました。

毎日書くのも大変だったけど、ノートのおかげで監督とコミュニケーションが取れ、反省、目標を明確にできました。


初芝橋本高校は山の上だったので、毎日走らされていました。坂ダッシュやランニングや走り込みやらされていました。ハンドのモットーが走る・速攻でした。


連帯責任や自主練は絶対しないといけないルールで、テスト前でも関係なし。夜は遅く毎日クタクタでした。


中学、高校で監督に厳しく鍛えられたおかげで今、あきらめない、フィジカルモンスターと言われる私があります。



その後「龍谷大学短期大学(京都府)」に進みます。


大学では、クラブより勉強の毎日でした。

短大だったので、授業はめいいっぱい、部活へ行ったらもう終わっていたので、自主練だけでした。

試合は当たり前に出れなく終わりましたが、やっと念願だったフィールドプレーヤーで、誰よりも早く走り、ハンドボールを楽しみました。


日本一を目指し、走り続けてきた私が、スポーツすることの情熱を失いかけた頃、

デフサッカー、フットサルと出会い、

私の夢は、世界を目指す夢に変わります。



フットサルは手ではなく足を使うスポーツなので、やっぱ難しいです。。

ドリブルを頑張ってるところです、、、、(笑)

でも守備は得意です(笑)


スポーツは障害に関係なく、同じ目標を目指す仲間とともに過ごす時間、楽しかったことはもちろん、辛いことも、しんどいことも経験したこと、出会いが私の宝物です。


今は、このデフフットサルの仲間、そして応援してくださるみなさんが私の大事な宝物です。




一生懸命やっても思うようにならないことはある。でも、一緒懸命できる人になれる。

恩師の言葉です。


いやいや、思うような結果になるよう、

負けない心で、より一層がんばります。



目指せ、世界一!!!!





お読みいただきありがとうございました。

今回このような機会をいただき、自分の頑張ってきた時代を思い出し、さらに、力が湧いてきました。

ありがとうございます。


W杯まであと3ヶ月となりました。


たくさんの方に毎回デフフットサル応援メンバーを見て頂き、選手のブログを読んでいただきありがとうございます。


みなさんのたくさんの支援があり嬉しく思います。



今日も明日もみなさんにとって幸せな1日になりますように。



#14 中井 香那